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松浦顔
沖縄市立安慶田中学校教諭

松浦雅子
『父と暮せば』井上ひさし/新潮文庫

 

 

今年の夏は、特別な気持ちで迎えた。それは、未曾有の大震災によって大きな被害を受けた原子力発電所、そしてそれを原因とした残留放射能のニュースが、どうしても原子爆弾のことを思い起こさせてしまうからだった。
1945年8月6日、広島市上空で炸裂した原子爆弾が、多くの人々を死に至らしたことは、もはや繰り返すまでもあるまい。それに加えて、家族を捜すために、あるいは罹災した負傷者を助けるために訪れた人々まで、犠牲となった。原子爆弾の放射能の恐ろしさについては、まだ誰も知らなかった頃だ。私の祖母も、罹災者の看護に赴き被爆者となった一人だった。酷い火傷を負った人々の様子を生前話してくれたことがある。
この「父と暮せば」は、広島の親子二人を描いた二人芝居の戯曲である。ここに登場する美津子もまた、広島で被爆している。母親はなく、父と二人の生活だった。その二人の生活を引き裂いたのが原爆だった。その瞬間、父は空を仰ぎ、娘はしゃがんだ。その偶然が生死を分けた。娘は生き延びた。しかし、父は帰らぬ人となった。
娘は、戦後も広島で生きていた。原爆症への不安もあったが、それよりも彼女の心にあったのは、生き残った自分を責める気持ちだった。「うちよりもっとえっと幸せになってええ人たちがぎょうさんおってでした。」それなのに、自分は生きている。「うちは生きとるんが申し訳のうてならん」。
やがて娘に好きな人が現れる。しかし幸せをつかむことを拒否してきた心は揺れる。そんな娘の恋の「応援団長」として現れたのは、今は亡き父の竹造であった。生きている時と変わらず、おせっかいでおしゃべりで陽気な父は、生きること、幸せになることを繰り返し諭した。二人の対話はやがて、父の死の場面に及んだ。どうしても父を置いて逃げなくてはならなかったあの日、竹造の最期の言葉は「わしの分まで生きてちょんだいよォー」だった。
「わしの分まで生きて」という言葉がどれだけ重く切実だったかは、その後に広島で生きてきた人の人生が物語っている。戦争が終わっても、瓦礫が片付いても、被爆を原因とする病で亡くなる人は後を絶たなかった。
数か月前に朝日新聞に掲載された一枚の写真を思い出した。トランペットを持って瓦礫の前に立つ少女。その瓦礫はかつての自宅だと言う。トランペットは津波にのまれた祖母に買ってもらったものだ。ザードの「負けないで」を吹こうと思った。元気でいると祖母に伝えたいためだった。しかし彼女は、トランペットを持ったまま、泣いていた。心の内では、祖母からもらったたくさんの言葉があふれていたことだろう。そして「負けないで」は、彼女の中に響く祖母の言葉でもあっただろう。
原爆と原子力発電が全く同じものだとは言わないが、両者を無関係に論ずるべきだとは思えない。放射能への恐怖を抱えて生きなければならなかった人が、広島にも長崎にもたくさんいた。今もだ。その声に、なぜもっと耳を傾けなかったのだろう。竹造の「わしの分まで生きてちょんだいよォー」という言葉は、私の中にも響いている。

 

 

2011年9月25日発行 アートリンク・マガジン vol.10 より